2010年07月27日

YEMEN

※ 南アフリカではネットが使えない環境にいましたので
  少しずつプレイバックして日々の動きを更新しています


こんなことを書き出すのはどうかと思うが、僕は営業下手な上に営業不足とあり、発表される写真が少ない。『問題が分かっているならドンドンいけ!』ということで日々、自分にムチを入れている次第。営業不足が全て直結するとは思わないが、撮影した写真の多くは人の目に触れる機会がなく、フィルム時代に撮影したポジは、箱の中に収まって机の中で眠っている。デジタルになってからも同様、多くのデータがハードディスクの中で出番を待っている。想いを込めて切ったシャッター、歩き回って探したシーンの数々、、。写真が可哀想だということで、写真を少しでも露出させようと、これから少しずつ思い出話と一緒に紹介をして行きたいと思う。

2006年9月、僕はイエメンのサナアに、日本代表の取材で行っていた。あまり記憶力が良くない僕だが、この旅の事は良く覚えている。サナアの街をとても気に入ったことと、オシムさんの記者会見を撮影をせずに聞き入っていたこと、それにタクシー運転手と一緒に、大きなナンと臭い羊の肉を食べたことなどを思い出す。サナアの街は、ディズニー映画の「アラジン」の様な所だった。狭い路地に露店が並び、紅茶を売っている子供もいた。みんな忙しいのか暇なのか、どちらとも言えない不思議な空気が流れていた。

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アジア人の僕が街を歩いていても、じろじろ見る人はいない。とても不思議だった。わざと僕を見ないのか、別にアジア人が珍しくはないのか、それとも僕を見る暇もないくらい忙しいのか、、、。過去にあんなに人目を気にしないで歩いたのは、サナアが初めてだった。試合当日、スタジアム周辺で撮影をしていると、子供たちが重たいクーラーボックスを担いでゲートまでやって来た。

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散々苦労してたどり着いたのに、警察は彼らの入場を阻止し、冷たく追い払っていた。どうなるのかと暫く様子を見ていたけど、やっぱり断られ続けていた。最後はとうとう相手にされず、子供たちは途方にくれていた。スタジアム周辺の撮影を終え、再び先程のゲートに戻ると、クーラーを持った少年たちはいなかった。諦めて帰ったのかと思ったら、しっかりゲートの中で仕事をしていた。「なんだ君たち、良い人じゃないか!」と、戻って警官の肩を叩いてやりたい気分だった。ゲートを入ると、スタジアムの脇に人集りが出来ていた。一台車が止まっていて、車内からなにかを投げている。それを手に入れようと、激しい奪い合いが起こっていた。どうやら選挙活動をしているようで、投げられていたのは立候補者の顔がプリントしてあるTシャツだった。レアなお土産になると考え出したら、いつの間にか僕もおしくらまんじゅう状態の中へとグイグイ割って入り、最前線にたどり着くことが出来た。そこで待っていたのはTシャツではなく、警棒を振り回した警官がいた。

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容赦無しに近づく者を引っぱたく姿は、まるで人間が鬼に変身したかのようで、僕はTシャツの事を忘れ、警棒を振り回す鬼警官を撮った。後から考えると、そんな写真を撮ってどうすんだ?とも思ったが、これもカメラマンの本能というものなのだろうか、、。それにしてもお国柄だとはいえ、スタジアムの中に車を乗り入れての選挙活動とは、なんとも大胆な発想だ。

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イエメンは大好きになったけど、あれから一度も訪れていないし、今のところ行く予定もない。テレビでテロリストの活動拠点だのなんだの、そんなニュースを見てからか、ちょっと引いてしまったのが実際のところ。でも、サナアを歩いた時間は特別で、本当に素晴らしい国だった。僕の記憶の中にしっかりと刻まれている。

LESSEPSの人々

※ 南アフリカではネットが使えない環境にいましたので
  少しずつプレイバックして日々の動きを更新しています


僕がフリーランスになって既に3年が過ぎた。時の流れは本当に速い。3年前、勤めていた会社を退社して「LESSEPS PHOTOGRAPH」という名前で再出発した。LESSEPS(レセップス)とは、僕が18才の頃に語学を学び、そしてサッカーを楽しんだバルセロナにある地下鉄の駅の名前。当時住んでいた所の最寄りの駅がLESSEPSで、そこには毎日何度も通ったバル(BAR)があたったり、バルサの試合を見に行くのも、買い物に行くのも、学校に行くのも、いつもこの駅から1日が始まっていた。バルセロナは僕に、人生とまで行けば大袈裟かもしれないけど、多くの事を教えてくれた場所。高校卒業まで、サッカーしか知らなかった若干18の若僧が、右も左も分からないで歩いた。そんな僕にLESSEPSの人々は、いつも優しかった。

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FC.バルセロナの創立者の息子、ガンペルさんと知り合ったのは、僕が毎日通うことに決めていたバルで出会った。毎日ランチの15分前に現れて、僕の背後から強く肩を掴み「Torabajador!(働き者〜!)」と、学校にも何処にも行かず、1日4回もバルに出入りする僕を叱りつけ、その後に一杯やるのが僕らの毎日の儀式となっていた。当時既に80歳後半だったガンペルさんは、入れ歯をカタカタさせながら、バルサの会長(当時)ヌニェスの悪口を話し、それからスポーツ新聞の見出しを見て議論をする。これがいつものパターン。バルの名前は「EL CANARI (エル・カナリ)」。オーナーのあだ名はウィリー。僕と彼の付き合いは今年で20年。僕のスペイン語の先生であり、時にサッカーうんちく術の先生であり、僕の兄弟のような存在でもある。ガウディのグエル公園に行った人は、もしかしたらLESSEPS駅を降りて、このバルに寄っているかもしれない。これから行く人は、是非寄って欲しい。別に普通のバルだけど、その普通がイイ。そしてここのバルの従業員は皆が家族。忙しなくよく働く姿を見ているだけで、そこに行く価値があるのかも知れない。「YOSHIの紹介で来た」と言えば、カーニャ(生ビール)一杯くらいはサービスしてくれるだろう。サービスしてくれない場合は、嘘でも「俺はレアルマドリードのファンだ!」そして「YOSHIの紹介で来た!」と付け加えれば間違いはないだろう。ただ、これはウィリーにしか通用しない。他のカマレーロと、99%のお客さんはバルサファンなので、摘み出されないように注意してもらいたい。当時、僕が余りにもバルサの熱狂的なファンだったので、ウィリーは自分がマドリーのファンと言うことを何年も打ち明けられないでいたそうだ。あの当時、UEFAもチャンピオンの予選も、僕は夜行バスにのり、発煙筒と遠投用のオレンジをポケットに忍ばせて遠征していた。ウィリーがマドリーのファンだと知ったのは、出会ってから10年も後の事だった。

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何の話しをしていたのか・・・  あぁLESSEPSの由来の話しだった。ガンペルさんにしても、ウィリーにしても、バルでひょっこり会った客さんも、昨日のことのように思い出がよみがえる。今までの僕の人生で一番、記憶に残る日々、そして何事にも挑戦をした地が「LESSEPS」だった。